四月は君の嘘(感想)
2015 / 11 / 18 ( Wed ) 23:40:10
新川直司『四月は君の嘘』(アニメ)(アニプレックス/原作:漫画)

四月は君の嘘 感想――有馬公生と宮園かをりをめぐって――

1.はじめに

 いろんな方が『四月は君の嘘』が良かったよと仰ってて私もずいぶんと前から気になっておりました。幸い、アニメにはまり原作を全巻そろえた友達がいたので、その方から借りて読むことが出来ました。最終巻が発売してひと月が経った頃だったのですが、期待していたものよりもはるかに面白く夢中で読んだことははっきりと覚えています。
 それからしばらくして、つい先日『四月は君の嘘』のアニメ版を視聴する機会があり、これも非常に楽しんだことに加えて、ある意味では原作とはまた全然違う作品になっていたことにひどく驚きもしました。このあたりは私自身とても面白いと思っていて、せっかくなので忘れないうちにメモ的に残しておこうかと思います。
 なお、ここから先は原作とアニメ版の両方のネタバレになっているのでご注意ください(物語の展開的にはさして「ネタバレ」はないのですが)。また、私の手許には原作がないため、原作に関しては完全に記憶に頼っており誤りがあるかもしれないのでご注意ください。

2.カラフル・モノトーン

 『四月は君の嘘』は音楽を扱った作品であり、第1話のタイトル「カラフル・モノトーン」という言葉からも、音や色という点でアニメには大きな期待が寄せられていました。アニメとしての表現の評価は、少なくとも私の観測範囲では非常に高いものがあり、(必ずしも作品の出来を表すわけではないですが)売り上げにもその人気が伺えます。
 このあたりは既に多くの方が言及されていますし(たとえば、あんすこむたんさんの『アニクリ』Vol.3で寄稿された『四月は君の嘘』の評論「弾くこと、つながること、触れること」など。ぜひ手に取ってみてください)、あんまりアニメ的表現について書くのも苦手なのでほどほどにしますが、ここがアニメ版と原作を大きく分けたところであると私も感じています。アニメ版はカラフルな作品であり、原作はモノトーンな作品でした。当たり前と言えば当たり前なのですが、全体的な基調がまさにカラフルとモノトーンという対比を感じさせるつくりだったのです。
 原作のページをぱらぱらとめくってみるとよく分かるのですが、黒と白のコントラストが強烈なものとなっています。体感的には普通の漫画よりも黒のベタ塗が圧倒的に多いです。演奏シーンを中心に、真っ黒な背景の中に登場人物が白く浮かび上がることもたくさんありますし、逆に登場人物が陰で真っ黒になっている中、会場が白い背景となっている場合もあります。カラフルに相当するものがトーンなどで表現されることもありますが、基本的には黒と白のコントラストの対比がはっきりしています。
 一方で、アニメ版はもちろん着色がなされており「カラフル」なつくりとなっています。原作で表現されていた公生の真っ黒な心象風景は、水の中に沈むようにやや青く表現されています。これを始め、原作の強烈なコントラストは息をひそめ、カラフルでグラデーションが鮮やかな画面となっています。
 このように、アニメと原作はカラフルとモノトーンの対比であり、ひいてはグラデーションとコントラストの対比となっています。この結果からさまざまな違いが生まれていると感じますが、私にとっては生と死の違いにさえ見えることがありました。特に原作では真っ黒で表現された公生の心象風景の多くは強く死を意識させるものでした。最初は母の死が、最後は宮園の死がはっきりと感じられます。アニメ版では、水の表現を用いることで、死というよりは沈むような苦しみに近いものを感じましたし、なによりもライトに照らされた明るい舞台やカラフルさを強調することで、死の匂いよりも生の希望をより強く感じます。
 特にそれがはっきりするのが、最後の公生の演奏でしょう。原作では真っ暗な背景の中散り行く花の中で宮園が消えていくという演出がなされます。演奏を始めた時の、ピアノを弾く公生と桜の構図も真っ暗な中で白い桜が浮いています。このような表現にははっきりと宮園の死を感じさせます。
 それに対し、アニメ版ではピアノと桜の表現も、光を用いるとこでやや温かな色も用いつつ、カラフルなものとなっています。さらに、最後の演奏シーンでは画面全体を幻想的な青白い空間の中で、宮園が透明になって光の中で消えていくような演出がなされています。死ぬ、命が散るというよりは、消える、遠くへ行くといったような趣です。直後もライトアップされた空間が映し出され、極力死の匂いは排されているように感じます。
 加えて、このグラデーションとコントラストという対比は色に限ったことではなく、時間に対しても同様です。アニメは当然アナログに時間が進行し、漫画はデジタルのように進行していきます。これも原作を軽く読んでいただいたらよく分かることなのですが、原作はかなりガツガツコマを割っており、その結果時間の流れもかなりメリハリのついたものとなっています。これに対してアニメ版はカットの長さを調整しながら画面にメリハリをつけていますが、原作と比べるとやはり流れるように進行しています。
 このようなカラフル(=グラデーション)とモノトーン(=コントラスト)という対比がアニメ版と原作の大きな違いであり、それから受ける感覚も非常に違うものとなっています。『四月は君の嘘』は確かにいわゆる「原作に忠実な」アニメ化ではありますが、作品の媒体を活かして全く違うトーンの作品となっており、両方に触れることは非常に面白いことだと思います。

3.物語のゆくえ

 前述のように、アニメ版は「原作に忠実」なものとなっています。しかしながら、原作とはわずかではあるものの決定的に異なるものになっています。特にアニメ版の最後の2話にそれが色濃く出ています。これにより、『四月は君の嘘』という物語が、一体どのようなものだったのかというものを変えているのです。
 これをひとことで言うならば、原作は「有馬公生と彼に惹かれた人々の物語」であり、アニメ版は「宮園かをりと彼女に惹かれた有馬公生の物語」という違いです。
 『四月は君の嘘』という作品を振り返ってみる時、重要人物のほとんどが有馬公生に惹きつけられていることが見えてきます。宮園かをりと井川絵美は幼いころ、公生の初めての発表会のためにそれぞれ自分の人生を決定づけられており、それが作品開始時点からも続いていきます。相座武士も公生を「ヒーロー」として憧れ、自身の道しるべとしていました。相座凪も公生に導かれ、ピアニストとして成長していきます(余談ですが、公生と凪の関係に、宮園と公生の関係を重ねることは可能でしょう)。瀬戸さんも幼き頃の公生の才能に感動しピアニストの道を勧め、(想像という形でしか描かれていませんが)公生の母親も彼の才能に惹かれていた可能性が示唆されています。もちろん、公生に恋心を抱いていた椿もそうです。彼ら彼女らを描くのに、作品は多くの時間を割いています(時には宮園がなかなか出てこないようなことも少なくありません)。
 原作はこれを重視して最後まで描ききっているのですが、実はアニメ版ではそうではありません。宮園かをりとの関係を非常に重視しています。特に重要なのがラスト2話です。第21話では病院の屋上で宮園かをりがバイオリンを「演奏」するシーンにおいて、その直前に宮園は手を空へとかざしますが、その瞬間に何かがはじけるような音と画面が表現されます。そして、白い光を強くするなど、「奇跡」としての強調がなされています。こうして「奇跡」であることを強く印象付けることで、宮園が公生を導いていくということを強く感じさせてくれます。
 そして、最後の演奏シーンでは、宮園との「共演」のシーンをしっかりと描いています。それも、二人でしっかりと目を合わせて一緒に楽しむように、時には踊るように、ステージは幻想的な空間へと移り二人の世界が演出されています。そこにはもう観客も何もなく、ただ二人だけの演奏であり、演奏が終わってもただ公生だけを映し、観客には拍手さえさせません。悲しいけれども確かに幸福な時間であり、演奏後の公生の表情は非常に切ないものがあります。
 極めつけは、エンディングです。ここでは、宮園ひとりが映った絵だけが流されていきます。様々な登場人物をBパートで描いていきましたが、最後の最後に宮園を前面に押し出していくことで、この物語の主役が誰であったのかを強く印象付けていきます。これらの演出から、この作品における宮園は公生を導く存在としてその重要性がはっきりと描かれると同時に、公生と宮園のつながりも強調されています。
 一方で原作では、宮園をひとり特別に描くのではなく、公生に惹かれた人々にもきっちりとスポットライトを当てています。これを象徴するのが、公生の最後の演奏後の井川と相座の台詞の、「私達は旅をするんだね/あいつの背中を追い続けて/これまでも/これからも」「きっと素敵な旅になるよ」です。作中でもとりわけ強く公生に惹かれた二人ですが、それがこの台詞から強くにじみ出ています。それは単純な幸福ではなく、希望も憧憬も苦難もいろんなものがないまぜとなったもののはずです(公生に惹かれた人々が抱く感情も実に多様で変化するものであり、瀬戸さんもまさにその一人でしょう。)。この言葉が、『四月は君の嘘』にとって最も重要なもののひとつであることは疑いないでしょう。「宮園かをりが渡亮太君が好き」という宮園の嘘にだって匹敵するとしても驚きではないでしょう。
 また、公生の最後の演奏シーンにおいても大きく演出が変えられています。宮園は「ありがとう」と耳許でささやいて、公生と目を合わせず(公生はただ驚きをもって見つめるだけで)、死を纏いほんの一瞬だけ演奏して消えていきます。随所に手術中の様子を描いたり、演奏後「届いたかな」という言葉を繰り返したりするように、それは「共演」というよりもむしろ「捧げる」に近いものを感じさせます。そして、それは公生の自立でもあり、宮園が公生を導くということもなく、アニメ以上に公生と宮園の断絶がはっきりと描かれているのです(そうして歩き出した背中を、井川と相座は見ているのです)。さらに、観客の拍手や前述の井川や相座の台詞など、公生という人間と彼に惹きつけられた人々の様子もはっきりと見えます。
 このように、最終2話(原作では10巻から11巻相当)では、アニメ版では宮園かをり(と有馬公生の二人)に焦点を当て、公生に惹かれた人々よりも宮園かをりに惹かれた公生を強く描いています。それ故に「宮園かをりと彼女に惹かれた有馬公生の物語」なのです。一方で原作は、宮園かをりだけではなく、有馬公生に惹かれた人々をはっきりと描き、宮園との別れと公生の自立を描くことで「有馬公生と彼に惹かれた人々の物語」となっているのです。

4.まとめ

 『四月は君の嘘』という作品は、アニメと漫画という媒体の違いを存分に活かしてカラフルとモノトーン、すなわちグラデーションとコントラストという形で全体的に異なる基調で描いています。それ故に、「原作に忠実な」アニメ化であるにもかかわらず、随分と違う印象を与えます。それに加え、アニメのラスト2話の演出を大きく変えることで、原作の「有馬公生と彼に惹かれた人々の物語」から「宮園かをりと彼女に惹かれた有馬公生の物語」へと華麗に変化しています。
 これはなーるさんが『PRANK!』Vol.1の『四月は君の嘘』の評論「真摯に向き合う、その先にあるもの」でご指摘なさっていることですが、アニメ版の第1話の冒頭では原作にはないシーンを追加し、宮園が公生にとって重要な役割を果たすことを暗示させています(このブログでは詳述しないので、ぜひ『PRANK!』Vol.1を買ってお読みください)。これがあることにより、最終2話で宮園を中心とした物語へと再構成したことにつながり、作品全体がまとまってきます。アニメ版がいかに周到に物語を変えてきたのかも感じさせてくれます。
 『四月は君の嘘』は原作もアニメもともに素敵な作品であり、それぞれ異なる魅力も持ち合わせています。どちらか一方だけではなく、両方を読むことでまた違う地平が見えてくるのではないかと思っています。

5.おすすめの文献

あんすこむたんさん(2015)「弾くこと、つながること、触れること」『アニクリ』Vol.3(アニメクリティーク刊行会)
通販:http://shop.comiczin.jp/products/detail.php?product_id=25252
アニクリのテーマの「アニメにおける<音>」を踏まえて、作中における音楽の可能性について論じています。作品のテーマにも寄り添いながら、キャラクターの関係性や演出など様々な観点から切り込んでます。個人的には、音と映像のメタファーのつながりのところが圧巻だと思っていて、その中でも作中の「光」や「水」の表現については唸らされます。『四月は君の嘘』という作品にとって、どれほど音楽が根幹にあるのかがよく分かります。

なーるさん(2015)「真摯に向き合う、その先にあるもの」『PRANK!』Vol.1(LandScape Plus)
通販:http://shop.comiczin.jp/products/detail.php?product_id=25866
前半はアニメ版の第1話から数話ごとに区切り放送順に作品を追っていく形式なので、アニメを見ながらでも、結構前に見て忘れている方にも読みやすくなってます。また後半には演出をメインに論じています。非常に細やかに作品を見ていらっしゃるため、私としては原作を何度読んでも呑み込めなかったところもするすると入ってきました。前述した、アニメ版の冒頭についての指摘は、この作品の印象をまるっと変えてくれたほどの衝撃でした。

6.おまけ

 『四月は君の嘘』である意味いちばん特別なキャラクターって椿だと思うんですよね。特に原作では「有馬公生と彼に惹かれた人々の物語」となっていますが、公生に惹かれた人々の多くは音楽を通じて彼に惹かれているのです。それは宮園かをりでさえ同様です(最終話で通り過ぎた存在として「特別」でなくなっているともいえます。また、渡も当てはまりそうですが、当て馬ポジですしそもそも彼に強く惹かれている描写もないので除外)。むしろ椿は公生を音楽から離そうとしたり、音楽に嫉妬したりしており、対立する存在でさえあります。たとえば、宮園が公生を音楽の世界へと誘うために度胸橋に飛び込んだことは、かつて椿が公生を音楽の外に連れ出すために度胸橋に飛び込ませたことと重なります。
 音楽を通じて様々なものを失い様々なものを得てきた公生の隣に立つのが、音楽と対立する椿であるというのはどこか安心するような嬉しくなるような気さえします。これから公生が進むのは「鬼が通る道」だからこそ、椿という存在の大切さも感じるのです。椿と音楽を軸にこの作品を見直してみても面白くなりそうだなあと思っているのですが、どなたか書いてないでしょうか。
 アニメ版で相当良かったところのひとつに、相座凪の存在があります。凪が公生と一緒にくる学祭に出ることが決まった直後、勢いよく教室を飛び出すシーンのなんてかわいいことでしょう(その後の駅のホームのカットもまた良いですよね)。これだけで、原作で好きだなあという凪が大好きになりました。
 私が原作でいちばん好きだったシーンは、前述の公生の最後の演奏の後の井川と相座の台詞です。彼らが追い続けるのは「背中」である以上、どれほどの苦難が待ち受けているか分かりません。どのような気持ちで、「背中」があると思ったのか、憧憬だけではなく自分と公生との差だって痛感したはずです。それでも、「素敵な旅」と言える強さ。この台詞は公生のピアニストとしての作中での到達点を感じさせる言葉でもありますが、公生がこの作品の中でどんな存在であるのかも教えてくれます。また、公生は確かにいろんなものを失ってきましたが、彼らとのつながりもまた得たものとしてあるのです。公生はひとり先を歩くのかもしれませんが、でも彼は井川と相座の三人でも道を歩んでいくのでしょう。これほど希望を感じさせる言葉はありません。それと同時に、『四月は君の嘘』という作品を、あるいは公生を、またあるいは未来を祝福している言葉にも感じられます。
 作中で何度も繰り返された「カラフル」ですが、面白いところに進んでいったなあというのが率直な感想です。「カラフル」は恋をすることで世界がそうなるというのが作品の冒頭で掲げられ、実際にもそういう風に描かれています。しかしながら、最後の演奏シーンを見ているとそれよりもカラフルというのは「恋」というよりも「人とのつながり」へとシフトしています。公生の人生、人とのつながりが彼の音をカラフルにしているのです。そこを宮園かをりに集約していったのがアニメ版であり、集約しきることをしなかったのが原作なのかもしれません。思うところはいろいろあったのですがいざ書き出してみるとまとまらなかったので、このくらいで。
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