放課後のプレアデス(感想) その1
2016 / 05 / 08 ( Sun ) 05:26:36
『放課後のプレアデス』(アニメ)(ガイナックス/オリジナル)

『放課後のプレアデス』感想 ――わたしは私になる――

1.はじめに

 『放課後のプレアデス』を初めて見た時に漫画『タビと道づれ』を強く連想すると同時に、決定的に違うとも感じました。この記事は、『放課後のプレアデス』を見ていて『タビと道づれ』を読んでいない方をいちばん念頭に置いて書いているので、『タビと道づれ』について深い言及は避けますが、流れ星を見た5人が集まる、運命線、手をつなぐといった設定やモチーフ、そして「わたしは私になる」という最終話での決意。このふたつの作品に影響関係があったとは思いませんが、どうしても似ていると感じずにはいられませんでした。ただ、twitterやgoogle検索などで調べてみても、同じようなことを言ってる人が見つからなくて、全然そんなことないのかなとか自信を失っているのですが(もちろん違う部分の方が圧倒的に多いです)。
 『タビと道づれ』は私にとってとても大切な作品であり、それに似ていると感じた『放課後のプレアデス』を好きになったのは自然なことでした。でもそれ以上に、いちばん最後の「わたしは私になる」に、『タビと道づれ』と似ているけど全く違うところに、『放課後のプレアデス』のすごさと素敵さを感じて惚れ込んだのです。
 この記事は、『タビと道づれ』が好きだったからこそ感じた、『放課後のプレアデス』の魅力について簡単に書いていけたらと思います。

2.わたしは私になる

 最終話の「わたしは私になる」は、『放課後のプレアデス』の中でも特に重要なポイントですが、強く印象に残っている方も多いでしょう。私自身もそうです。
 「何者でもない」彼女たちが、様々な経験を経て「わたし」になるのですが、どうしてその選択が出来たのでしょうか。それはきっと、みんなに支えられた経験があって、そして支えられたのは他でもない「わたし」だからなのでしょう。
 「完璧な誰かになりたいってことじゃなくて」「みんながみんなだったから」「わたしが私だったから」「一緒にいられたあの時間」「だったら、私は私がいい」彼女たちの言葉は、みんなもわたしも大切で、それが力になっているということを感じます。でも、何より私が感動したのは、この「わたしは私になる」という選択は、自分自身で決めたことだということです。確かに、すばる達は互いに支え合っていますが、「わたしのままでいい」と誰かに言われたわけではありません。むしろ、「何者でもない」はネガティブに捕えられることも多く、特にすばるやあおいは「選ばれなかった」人間として、「わたし」はネガティブに扱われることもありました。でも、ずっとあった「変わりたい」という思いだとか、みんなと一緒に過ごした時間だとか、そういったものが大切だから「わたしは私になる」と自分自身で決意できたのです。
 『タビと道づれ』は感想その3で書いたのですが、「わたしが私じゃなければよかったのに」という言葉がテーマになっていて、これに対して誰かが「わたし」を認めてくれることで「わたし」を自分でも認めていく、そういう物語なのです。それに対し、『放課後のプレアデス』は、自分自身で選択していきます。その強さがなによりも尊いと私は思ったのです。みんなが羨ましくなることもいっぱいあっても、それさえも「私は私がいい」と思う力に変えていきます。この強さを尊いと言わずになんと言えばいいのでしょう。みんなが「わたしでいい」と言ってくれたからではなく、みんなを「わたしでいい」と言いたいからこその、「わたしは私になる」でもあるのです。
 ここにふたつの作品は決定的な違いがあるのですが、もちろん共通する部分もあります。たとえば、5人が別れた後、いつきが「まだあったかい」と手を握り締めるシーンがありましたが、みんなと離れても、つないだ手から伝わったぬくもりが、生きる力になるのだと感じられます。『タビと道づれ』でも、「ずっと手をつないでいく訳にはいかなくて……覚えてる(誰かの手の)熱は……胸の中で星空みたいに拡がるんだ」(第6巻)というように、手をつなぐことでみんなとの物語が生まれ、そしてその時に受け取ったぬくもりが生きる力になるのだと示しています。こういった共通するものがあるからこそ、両者の違いがそれぞれをより魅力的にさせてくれるのです。

3.遠くに

 『タビと道づれ』と比較した時に、もうひとつ特筆したいものがあります。それは、運命線の設定です。ここからは、やや『タビと道づれ』のネタバレが強まりますので、できればふたつの作品に触れた後に読んでいただけると幸いです(あんまり『タビと道づれ』)の核心に触れないようにはしますが。
 『放課後のプレアデス』の5人はそれぞれ違う運命線から集まっています。特に、すばるとあおいはお互い自分の運命線で相手と深いつながりを持っていた時期があり、それぞれ「選ばれなかった」という経緯があります。第1話では、ふたりとも相手に対して複雑な思いを抱いていることが描かれますが、第2話で「やっぱりすばるは私の知ってるすばるだよ」というように、お互いを受け入れます。そして、第7話で変わっても変わらないものを見出します。第1話から続いた確執はここでようやく解消されるわけですが、それはこの運命線が絡まった世界の間の話です。元の運命線でのすばるとあおいの関係は決して変わったわけではなく、最終話でもふたりの再会が描かれています。そして、最終話で再会したあおいは、すばると同じ経験をしているわけではありません。
 『タビと道づれ』では違う世界からやってきた人に対し、星よりも遠くにいるのだから届かない、そういうような言葉が出てきます。『放課後のプレアデス』では、『タビと道づれ』よりもはるかに遠いところにあって、もっと届かないとも言えます。しかも『タビと道づれ』では再会できる可能性が残されていましたが、『放課後のプレアデス』ではそれすらも残されていませんでした。プレアデス星人からの贈り物を使えばみんなで同じ運命線を生きることはできたかもしれませんが。
 どれだけ一緒にいても、みんなとても遠いところにいる人間で、そして必ず別れなければなりません。どこか甘くやさしい時間が描かれていきますが、この5人のつながりの裏にはどこか残酷ささえ感じるものがあります。特に、みなととすばるの関係がそうです。
 第9話で語られるすばるとみなとの出会いと、第10話で語られるみなととすばるの出会いから、ふたりはそれぞれ違う運命線から来たことがわかります。ふたりは運命的な再会を果たしたのではありません。すばるがみなとの扉を開けた時に、初めて出会ったのです。最終話に至っては、みなとがすばると同じ運命線に行くことを選択しない限りは、ふたりは完全に別れてしまうのです。
 『放課後のプレアデス』も『タビと道づれ』も、違う世界の人間が出会うということが描かれていますが、『放課後のプレアデス』はその出会いによりシビアな設定が織り込まれています。そして、その中でもひたむきに生きる姿がていねいに描かれていて、そういう強さにも心惹かれずにはいられませんdした。

4.おわりに

 『放課後のプレアデス』は『タビと道づれ』を連想させるところがたくさんあります。似ているということを指摘すること自体が目的ではないので、ここにはその一部しか書いていません。事実共通する要素はたくさんある一方で、そこもよく見ると決定的に違うということもあります。その一つが「わたしは私になる」であり、「運命線」の設定でもあります。
 この違いを通して、『放課後のプレアデス』の『タビと道づれ』のそれぞれの良さがよりはっきりと見えてきます。確かに『放課後のプレアデス』を最初に好きになったのは、『タビと道づれ』みたいだったからですが、今は『タビと道づれ』とは根本的には全く違う作品としてとても好きになっています。むしろ、『タビと道づれ』では出来なかったことをしてくれたとさえ思っていて、「わたしは私になる」と自分で決意したキャラクターの尊さは何度強調しても足りません。
 影響関係はないだろうと確信したくなるくらいには毛色の違う部分もある作品ですが、『放課後のプレアデス』も『タビと道づれ』も魅力的な作品なので、ぜひどちらにも触れていただけたら幸いです。きっと『タビと道づれ』を読めば『放課後のプレアデス』の魅力が、『放課後のプレアデス』を見れば『タビと道づれ』の良さがより伝わってくる、互いに惹きつけ合うような素敵な作品なのです。
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